シェニール織とか黄肉のメロンとか
角川春樹事務所
最近、読んだ本です。
都内の余裕のある中産階級の、三人の女性の話です。十代から付き合いはさかのぼり、現在は五十代です。三人の背景は似ていますが、個性、人との関わり方は、異なります。
お互いの性格の違いを戸惑いながらも受け入れ、人生の変化に臨む三人です。そのやり方に、千代子は、自分自身を重ね合わせてしまいます。レストランで、わいわいと話し、メニューを眺める時だけ静かになる。女同志のあるあるに、引き込まれてしまいます。お洒落な生活の小道具、機転の利いた会話。読んでいて、心地よいです。ずっと読んでいたいというこの気持ちは、かつての谷崎潤一郎の「細雪」を思い出させます。
それなのに、読んでいて不安を感じてしまうのです。こんなに、心地よい生活を続けて、この小説はどんな終わり方をするのかと考えてしまうのです。
登場人物の最後を知りたい、最後が不幸なら知りたくない。こんな相反する気持ちを抱きながら、読み進めていきます。
ついに、最終ページまで読み進めました。
二人の登場人物が、会話をします。話しながら、思いついて、ラインを送る。
それだけ。
えっ、こんな終わり方?
風景の描写も心理の描写もありません。何か、突き放された気持ちになります。
でも、それでいいのかもしれません。小説の登場人物の結末は、読み手の想像力にゆだねる、開かれた終わり方です。
さすが江國香織さん。小説の終わらせ方まで、恰好いい。
恰好いい生き方、恰好いい文章に憧れながらも、そうは出来ない千代子は、読後、憧れた気持ちのまま、本を閉じました。